人気ブログランキング | 話題のタグを見る

石神井公園周辺メモランダム
by kazaakari
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
旧「風モヨイ」blogから
2011/04/19

EN ATTENDANT GODOT
先日(4月15日)新国立劇場で「ゴドーを待ちながら」(作 サミュエル・ベケット)を観に行った
翻訳/岩切正一郎 演出/森新太郎 ヴラジミール/橋爪功 エストラゴン/石倉三郎 ポッゾ/山野史人 ラッキー/石井愃一 少年/柄本時生 
時が流れ、この時代に、この時に、リアリティの生まれるタイミングになったようだ
空と木と石(地)だけの舞台 ベテランの繰り出す丁々発止、ふと止まる時間、沁み入る台詞、......
かつて前衛不条理劇といわれたこの本から馥郁と薫る空気が流れ出て会場を満たしていった
『言葉という記号でしかなかったものに、指し示せる「物」が賦与されて、物が実際に舞台にあり、また、「声」が役者の肉体性を刻印されて実際に聞こえている、ということではなかったろうか』木と石からのせせらぎ/岩切正一郎/(公演プログラムより)

 ▼
We see a single tree beside a country road.
Evening.

Estragon:Why not?
Vladimir:We're waiting for Godot.
Estragon:Ah!

Neither man has ever met Godot.
They keep waiting.


森新太郎/東京都出身 演出家 演劇集団円会員 モナカ興業主宰

投稿日 2011/04/19 アート・文化 | リンク用URL
2010/08/01

フェリックス・ティオリエ写真展
「いま蘇る19世紀末ピクトリアリズムの写真家」と題して
フェリックス・ティオリエ(1842~1914フランス・サン=テティエンヌ生)の
遺族などの保管するオートクローム、ヴィンテージ・プリント約170点が
紹介された
展覧会は世田谷美術館で5/22~7/25の間開かれ、
初日のレセプション前に観る事ができた
チラシやポスターの「ヴェリエールの農場」など「かつてあった」、
また「ノスタルジック..」な、と言う言葉を越えて、
そこにある風景写真にココロを揺さぶられ、また時を越えて共振できるのだった
写真が「切り取る」ものではなく、「空気感」と一体になれる
「絵筆を持った画家」と同質でいられる事は
成り立ちを考えると遠い風景になってしまったようにも思われる
人の営みや木々の生育など、積み重なる時間の流れと、
今もたゆたう空気感も含んだ、
今に繋がるある「存在」?...ふと隣に居合わせた.......
現代のこの東京でもふと気がつけば
こんな空気感の中に居る事がある.....
信じられないかもしれないけど

幸いにしてデジカメは、フィルムにはない風景のsizzle感を、取り込む事ができるようだ
思えば元々実体のないものを「写真」として、今はさらに実体のないデータになり
美しい虚像はさらに磨きをかけて行く

些細な事だけど道ばたの、今なら露草など目にしたら
ちょっと愛でてみるのも佳いかもしれない

投稿日 2010/08/01 写真 | リンク用URL
2010/03/25

去年マリエンバードで
アラン・レネ監督の「去年マリエンバードで」のデジタルリマスター版DVDを観る機会があった
1970年頃の映像論ー映画論?のテキストには必ず登場したような覚えがあった
強烈な西洋式庭園の一コマが大抵引用されていた様に思う
この映画が日本で云えば「よもつひら坂」往還物語とすると、結構判りやすいのかもしれない
夜の向こうには洋の東西を問わず、憂鬱と畏怖と畏敬と終わりのない
時の扉が開こうとしているのかもしれない
ジャケットに曰く「多面的で蠱惑に満ちた、「永遠に開かれた問い」としての映画」
永い間ずうっと、あの西洋式庭園での一カットのために、いつかきっと手元に置こうと
決めていた映画がDVDでやって来た
「虚無」という言葉がどんな由来か判らないけど、ヨーロッパの石の街には
人を隔てる塀が頑として在るのかもしれない
1961年のヴェネツィア映画祭金獅子賞受賞作品だそうだ

投稿日 2010/03/25 映画 | リンク用URL
2010/01/13

月光のアンフラマンス展
先日、千葉県の佐倉市郊外の川村記念美術館に
「静寂と色彩:月光のアンフラマンス」展を観に行って来た
『アンフラマンスとは、アンフラinfraが「下の、以下の、外の」の接頭辞で
マンスminceが「薄い」という形容詞なので、極薄か超薄か薄外程の意、』だそう
マルセル・デュシャンの死後に発表された未発表ノートに残っている概念だそうだ
『眼に見えない次元の境界域をアンフラマンスと名付け、その境界にある微妙な、或は玄妙な事象に潜む何ものかに
芸術的な源泉を見いだしている』
『白昼の月光にはアンフラマンスがあり、そこに絵画の象徴性を見いだすことができる』
『月から照らし出されるあるいは映し出される静寂な光彩を手がかりに中世から現代までの東西の作品を幅広く展観、「アンフラマンス」の視点が将来の美術表現に持つ可能性を探る...』.........展覧会挨拶文から
常設の作品群を交えて第一部と第二部の構成
第一部<円山応挙、橋本平八、川瀬巴水、...etc>
第二部<小野田賢三、黒田寛、松本陽子、ホセマリアシシリア、エンマクンツ、渡辺えつこ、伴美里、小池隆英、
栗田宏一、中西夏之、......etc>
気になっていたのだけど最終日間近に行くことができ
何か共振する絵画の多い展覧会だった.......
微細な光に心がときめく時があるのは、
絵画に限らず音楽も含め心を振るわす『源泉』を持っていることに
気づかされて、このタイトルに直感していたものを
十二分に裏付けたのだった

投稿日 2010/01/13 アート・文化 | リンク用URL
2009/12/11

MINGEI & KAWAII
セレクト・ショップ"Beams"が一部に「民芸」を標榜する"Fennica"を立ち上げた.....
という新聞記事を目にしてからだいぶ時間が経った
そのBOOKSのコーナーでは『新しい教科書シリーズ「民芸」』という本を加えている
コラムに
嘗て「民藝」の出発点に「フォーククラフツ」という捉え方があった
下手物、雑器、荒物、から何回かの「民藝」ブームを経て、'80年代ころ「型もの」のKAWAIさに
昨今の「東欧のユルい雑貨」に今の気分を見出して
「それなり以上の」和もの、民芸に「モダン・クラフツ」という
感性の流れを観てみようとする
また'70~'76年の「ディスカバージャパン」の観光キャンペーンにも
大いなる感性への刷り込みの痕跡を観てとる.....とする

永い間積もった時間と感覚が「かくれた次元」ならぬ「KAWAII次元」を育成・醸成して来たのだろうか?
瞬時の共有感覚として「KAWAII」を、誰かが「オルタナティブ・センス」といっている様に
仮に「カタチ」に観てとっても、「もの」には削ぎきれない「意味」たちが沢山含まれている

唐突だけど、KAWAII"石神井" は生まれ来るのだろうか?

*新しい教科書「民芸」濱田琢司 監修 プチグラパブリッシング
*「かわいい」論 四方田犬彦著   ちくま新書
*カワイイパラダイムデザイン研究 真壁智治・チームカワイイ 著 平凡社

投稿日 2009/12/11 アート・文化 | リンク用URL
2009/09/25

アンリ・リヴィエール展
神奈川近代美術館葉山で開催されている「アンリ・リヴィエール展」に脚を運んだ
JR逗子駅から京急バスで約20分,三ヶ丘の一色海岸を望む海岸に建物はある
フランスの浮世絵師といわれる....アンリ・イヴィエール(1864-1951年)は日本には脚を運んだことがないそうだ
展覧会はカフェ・シャノワールと初期作品、ブルターニュ=自然の風景、世紀末パリ=近代化する都市の風景、リヴィエールと日本、近代日本絵画とリヴィエールの5部構成でヴォリュームはたっぷり....
当時の風景の空気感もたっぷりと伝わって来る
折しも小平のガス・ミュージアムでは「ノエル・ヌエット展」、両国江戸東京博物館では「よみがえる浮世絵/うるわしき大正新版画/展」が
開催されている
大戦前の東京の柔らかな風景の空気感を伝えて、現在の東京の源流に思われる
彼の時代に生きていたわけではないので実体験ではないが、静謐な光と空気に時にこの現在の東京でも
ビルや緑の影や光にふと「この風景の空気」に出会うときがまだまだ感じられる
工事の進む石神井公園駅新駅と駅前にこの空気感は醸すことが出来るのだろうか?
広い空と小さきものたちの「kの小径」は多分変わらず、これからも変わらない
カフカのいう小さいもの「k」は小説の主人公として登場するそうだ
権力にとってあまりに微々たるものとして..........

投稿日 2009/09/25 アート・文化 | リンク用URL
2009/03/17

石上純也
INAX出版の現代建築家コンセプトシリーズ2から石上純也「小さな図版のまとまりから建築について考えたこと」
という第11回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展 日本館展示(2008年9/14~11/23)の公式カタログを
手に取る機会があった
薄い鉄板による巨大なテーブルや東京都現代美術館アトリウムでの「四角いアルミの風船」、神奈川工科大学KAIT工房、など新しい建築への可能性を提案してきている
巻頭に『僕らのプロジェクトを約500の小さな図版と約150の小さな文字のかたまりに細かく分けて、それらが等価にも見える関係性を紙面の上で注意深く探す。そうすることでそれぞれのプロジェクトの境界があいまいになり、抽象的な全体像がぼんやりと浮かび上がってくる。そのあいまいな全体性をかたちづくることが、さらに新しい建築の可能性につながってゆくのではないかと思っている。』と掲げている。
実際には接したことは(現代美術館での展示?以外)ないが、イメージの小さな断片から物理的に形のあるものと
抽象的な?コスモス??まで境界のない空気の中に遊ぶような
普段の暮らしの中で実在する「抽象」に突然触れるような
この中でも食べることは?排泄することは?コンセプチュアルな中に
『揺らめく境界』が浮かんでくる
『ランドスケープとライフスタイルがどのように結び付くかを考える.....』スタディも提示している

春の空気の中に別な意味でここ石神井では
空間や土地の永い永い積層した時間も、揺れている

投稿日 2009/03/17 まち歩き | リンク用URL | コメント (0)
2009/01/08

「日和下駄」再見
永井荷風の「日和下駄」を読み直す機会があった。
大正3年(1914)8月~翌4年6月まで9回にわたって『三田文学』に掲載、後同年11月に全面的に加筆され単行本として上梓されたようだ。(岩波文庫「荷風随筆集」解説参照)
日和下駄・淫祠・樹・地図・寺・水(附渡船)・路地・閑地・崖・坂・夕陽(附富士眺望)と構成、一名「東京散策記」をうたっている。
序に『昨日の淵今日の瀬となる夢の世の形見を伝えて、拙きこの小著、幸に後の日のかたり草の種ともならばなれかし。』過ぎし日の東京と流してしまえないほどに、かわりのない「東京」の内の姿と心情を伝えている。今のJR山手線の内側から「大川」辺りまでの市中がエリアだ。
あわせて池波正太郎著「江戸切絵図散歩」新潮文庫、前田愛著「幻景の街ー文学の都市を歩く」岩波現代文庫、国木田独歩著「武蔵野」新潮文庫、川本三郎著「郊外の文学誌」新潮社、秋本治「両さんと歩く下町ー『こち亀』の扉絵で綴る東京情景」集英社新書、若林幹夫著「郊外の社会学」ちくま新書、千葉皓史著句集「郊外」花神社、などなど

「東京散歩」の「鮮度より深度」といった厚みを持って「書を捨てて...街へ...」出かけよう.......

此処石神井には駅周辺に6軒の古書店があり、一軒の有名?店以外は店頭で古書を選ぶことができる(リサイクル・ブックストアも..)石神井のまち歩きにきっと必要なのは「鄙びたのどかさ」と、何処かの繁盛商店街の人が云っていた「肩をぶつけ合いながら統一感のなさが嬉しい」といった変化に富む構造かもしれない

日和下駄曰く「もし東京に果たして都会美なるものがあり得るとすれば、私はその第一の要素をば樹木と水流に俟つものと断言する。」

投稿日 2009/01/08 本と雑誌 | リンク用URL | コメント (0)
2008/08/08

駆け抜ける都市
2008年6月21日から7月12日清澄白河の小山登美夫ギャラリーで
"デモクラシティー"と題してベンジャミン・エドワーズ展がひらかれた
沢山の建物のCGの下絵を基にチャンバスの上に壮大な仮想都市をペインティングして行く......
(STUDIO VOICE2008年8月号/VOICE'S ART SPACE、www.tomiokoyamagyallery.com参照)

ギャラリーの紹介記事に「私たちを取り巻く情報の洪水や目に見えない規律が、次々と道路や看板、ビルに
姿を変えて、新しい都市を構築して行くかのよう」
「都市の形態を形作るものとは何なのか、そこには生活者の社会行動、消費行動、そこから噴出するリピドーまでも、その機能や意匠へと確実に反映されているのではないでしょうか......」

穏やかな"移ろい"とはかけ離れた、疾走する都市像がハードエッジでキャンバス上に展開されていた
彼の絵は東京の街が喪失と生成?を繰り返して行くその先に見えてくる危機的にシャープなイメージに
限りなくオーヴァラップしていく気がする

東京が曖昧なものを削ぎ落として行くその先には、
もうトトロの住まう所は映画の中でしかあり得ないのかも........

練馬豪雨も含め危機的な状況に警句を投じる
展示だったかもしれない

投稿日 2008/08/08 アート・文化 | リンク用URL | コメント (0)
2008/08/04

雪沼とその周辺
「雪沼とその周辺」という短編集(堀江敏幸著/新潮文庫)を読む機会があった
静謐な読後感を期待して本屋で手にしてそのまま購入....
『山あいの寂びた町の日々の移ろいのなかに、それぞれの人生の甘苦を映しだす
川端賞・谷崎賞受賞の傑作連作小説』と文庫の裏書きにあった
読み終わると、ふとこの町(雪沼)の暮らしを遠くから眺めて
静かな思いを抱いて、また次の旅先に出発して行くような
何だかとてもしみじみと、移ろう季節や暮らしに感じ入るのでした

変わりゆく石神井には、だんだんと「静謐」というコトバが
遠ざかって行くような......
それでも日中の蝉の声、夕刻の三宝寺の鐘の音、
「三宝寺池とその周辺」くらいの街なんだけど
しみじみ感?はまだまだ健在でいて欲しいような.....

東京は街の境目が曖昧でそれがまた面白い
それでも場所ごとに土地のイメージはかなり変化する
エッセンスを辿って「まち歩き」するポイントかもしれない

『「街」は見えない境界線だった。ぼくは地図なんぞ信じはしなかったが、
町名が変わる地点ではひどく敏感になった。その先には外界があったからだ。
それは友だちのいない街、屈曲した迷路と袋小路の世界だった。隣の街に足
を踏み入れると言う行為は冒険心を刺激したし、危険を少なからず含むもの
だった。そこには古い蔦に壁面を覆われた何かの研究所が聳えていたし、
墓地の石垣伝いの道を辿ってゆくと貧しいバラック建ての街を通り、そこで
はもはや<街の臭い>さえもが違ってしまうのだ。』
**ワンダーランド昭和48年9月号<なぜ風街なのか/松本隆>より

投稿日 2008/08/04 本と雑誌 | リンク用URL | コメント (0)
by kazaakari | 2014-08-27 01:47 | めも
<< 井のある風景展 3rd 第四回 井のいち >>